3.11
この数字は多分、恐らく、一生忘れないだろう。
ちょっとまったりした午後のオフィスだった。
突然、地鳴りと細かい縦揺れが来た。
かと思ったら横揺れに変わって、だんだん大きくなってくる。
2、3日前にちょっと大きな横揺れの地震があったが、すぐ治まったし、今回もその瞬間はまたすぐ治まるだろうと思っていた。
しかし、横揺れは収まるどころかどんどん大きくなる。
これはまずい、そう思ってまずは机の下に潜り込んだ。
机の下でも揺さぶられ、その時間は3分にも5分にも感じられるほどだった。
揺れが治まり、机の下から這い出すと、周囲のとりあえずの安堵の顔があって一安心するも、これはただ事ではないことだけは確かだった。
幸い、オフィスの棚や机が倒れたりすることもなく、けが人もいなかったが、中越地震の経験上、また大きな余震がくるのは確実だった。
皆、周囲を確認したり、右往左往している中、非常口のロックのカバーを外し、非常口を開放した旨を叫ぶ。おもむろに何人かが自分の脇を抜けて、非常口から逃げ出していった。
ひとまず自分の席に戻ったところで、余震が来た。
また大きな横揺れ。
思わず机の下に再び潜り込む。
今度は1回目の半分くらいで揺れが治まった。(そんな気がした)
オフィスは大きな観葉植物の鉢が軒並み倒れたくらいで、たいした被害もなかった。
電気も点いている。PCに向かってみれば、LANもネットも生きていた。
安普請の自宅と隣に住む叔母が心配になり、携帯で連絡を取ろうとするが、全くかからない。
固定電話からかけてみるも、これも通じない。
携帯のSMS、PCメールは生きているようなので、立て続けに元妻と叔母に安否確認のメールを打った。
そこまでして、ようやく情報を収集しようという心の余裕が生まれてきた。
ネットの地震情報は、M8.9の大地震が宮城県沖で起きたと伝えていた。同時に東京は震度5弱。震源地に近い宮城は震度7とディスプレイは北日本の地図の上に映し出していた。
そうしている間にも小さな余震がひっきりなしに起こっていた。
そのたびに、まるで船に乗っているようにビルは揺れた。
まずは、取り掛かっていた仕事に区切りをつけ、twitterや各種ポータルサイトを開いてみるが、ただただ大きな地震で、津波が東北沿岸を襲っているということ、日本の北半分の鉄道がすべて止まり、高速道路も全て通行止めになったということくらいしか分からなかった。
ただ、まるで映画のような津波が家を押し流す映像がネットで流れていた。
もう、今日は仕事にはならない、かと言って、交通手段がマヒしているため、動くに動けない。
さて、どうするかと思案しているうちに、会社から自由意志で行動してよいとお達しが出た。
余震で船のように揺れるオフィスに長居する気にはなれなかった。
時計は夕方5時を指そうとしていた。
メールの返事は相変わらずない。
歩いて家に帰ることに決めた。途中でタクシーでも拾えればラッキーだ。
帰り支度をして、オフィスを出ようとした頃、同僚の何人かも帰宅を試みることを決心したらしく、身支度を始めたようだった。
エレベーターは当然止まっており、非常階段を下りて新宿通りに出た。
自分と同じように新宿方面を目指す人並みがあったが、ごった返すというほどではない。
車も流れは悪かったが、動かないというほどではなかった。
途中の電話ボックスには長蛇の列ができていた。
歩き出した頃はまだ明るかったが、四谷を過ぎ、新宿御苑に近くなると日もとっぷりと暮れてきた。
気温も下がってくる。
暖かいものが食べたかったので、御苑の手前のラーメン屋に入る。
ラーメンを待ちながら、twitterやメールをチェックしたり、ツイートしたり。
自分の現在位置をつぶやいた。
だが、なにが自分のTLに流れていたかは、覚えていない。
腹も満たされ、暖かくなり、ちょっと安堵しつつ店を後にしてまた歩き出した。
新宿の南口を抜け、20号をそのまま進むか迷ったが、結局小田急が動き出す一縷の望みを抱えて南新宿駅を目指した。
結局、タクシーは拾えず、徒歩での帰宅を覚悟することになった。
そのまま、できるだけ小田急線沿いに歩く。
途中、叔母と息子からSMSが届く。無事のようだ。
代々木八幡を過ぎた頃、新潟の父親からPCメールがiPhoneに届いた。
とりあえず、徒歩で自宅を目指すと返事をし、歩き続けた。
国道から外れたせいか、めっきり人は減ったが、それでもどこにも歩く人々がいた。
代々木上原から下北沢近くの井の頭通りを歩き、環七を越える頃、両足のふくらはぎが張り始めた。
梅ヶ丘近くの赤堤通りに出る手前の公園の入り口で、ついに座り込んでしまった。
しばらく休んでいると、大きなランクルが目の前に止まり、中年の女性が道を聞いてきた。
環七はどっちだと聞く。荻窪に行きたいのだと。
それなら、環七にでるより、赤堤から環八に出た方がよいと、赤堤通りへの道を伝えた。
人と会話をして、気持ちがちょっと持ち直したので、再び歩き出す。
途中、同僚とメールのやり取りをしたり、ツイートしたりしながら、もはや惰性に近い感じで歩を進める。
経堂に差し掛かる頃、千歳船橋行きのバスが見えたが、赤堤通りは渋滞しておりほとんど進んでいない。歩くほうが早いくらいでついには追い越してしまった。
だが、渋滞していたのは経堂への道との交差点までだった。
となれば、千歳船橋までバスで行って、成城学園前までバスを乗り継げば、と考え運良く目の前にあった停留所から追い越したバスに飛び乗った。
車内はかなり混んでいる。朝の通勤ラッシュ並だ。
バスに揺られながら、立っているだけで休憩になった。足も幾分楽になってきて、それと共に千歳船橋までいく遠回りが億劫に感じてきた。
環八に出たところで、成城警察署前で下りてしまう。
ここからなら、真西に向かえば自宅だ。もう少し。
そう思って、環八の歩道橋を渡り、また歩き出した。
旧青山大学キャンパス跡地の大きなマンションを過ぎ、野川を渡る頃になって、見慣れた景色に自宅が近いことを感じたこともあったのか、急に足が重くなってくる。息も上がってくる。
最後の2kmが辛かった。
なんとかいつもの路地を入り、隣の叔母の家のチャイムを押すことができた。
自分の家も外から見る限りは異常はなさそうだ。
ほっとしつつ、時計を見ればいつの間にか夜の10時。5時間が経っていた。
叔母の家で1時間ほど休ませてもらう。停電はしていなかったがガスが止まってるとのことだった。
自分の家に戻ろうと、部屋の扉をあけて唖然とした。
靴箱が見事に倒れ、階段をふさいでいた。靴箱を元に戻し、床にちらばった靴はそのままに部屋に入る。
リビングは本や飾っていた雑多なものが床に落ちていたが、それほどひどい状況ではない。
液晶TVも無事。
ダイニングはひどい有様だった。
まるで爆撃を受けた様とはまさにこのことだろう。古いブラウン管のTVは床に落ち、17インチのCRTディスプレイはコードに引っ張られたまま前につんのめっており、食器棚から食器が落ち、ほとんどが割れていた。割れていたというよりは砕けていたと言っていいだろう。
食器の半分が駄目になっていた。
明日は土曜日だ。週末をかけてゆっくり片付けよう。
TVとディスプレイだけ元に戻し、スウェットに着替えてベッドに潜り込んだ。
なんとか、職場から歩いて帰ることが出来ることは分かった。
それだけでも収穫だと言い聞かせて眠りについた。